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【時間】第1~第4土曜日
19時~20時30分
【場所】子育てプラザ福島
4階 軽運動室
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> 芦原会館誕生、正道会館誕生
芦原館長の著書「空手に燃え空手に生きる」には1980年3月の支部長会議の際に「あと一年で辞めさせて欲しい」と自ら宣言されたと言う記述があります。
にも係らず、半年後に極真会館から永久除名処分されて芦原会館設立に至ったわけですが。
極真会館側の永久除名の理由は
「8年間の長きにわたり、極真会館道則・支部規約に違背し事ある毎に本部の指示に従わず、再三にわたる警告も無視し反組織的行動を更めることがなかった。」
支部規約違反とは他府県に本部の認可なく支部を開設したことを指していると思われます。
酒席に於ける支部長に相応しくない振る舞い極真会館の機関誌パワー空手のには除名理由に挙げられていました。あいたたた…)
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これ即ち関西一円に広がった極真会館・芦原道場が総本部無認可だったと言う話なんですね。
ただ、大山総裁が大阪へ視察に来られ、大勢の道場生に迎えられてご満悦であったと言う前述の証言もありますし、全日本大会のも中山・伊藤・前田師範など後の正道会館師範クラスのメンバーが関西から出場を認められていました。今で言うグレーゾーンだったのでしょうね。ところが全日本大会に出場している関西の芦原道場の選手で極真会館の有段者名簿に名を連ねていない人が多数いたそうです。例えば前田比良聖さんは登録されていますが、中山・伊藤両師範の名前は記載されていなかったとか。不思議ですよね。
下は芦原道場の入会申込書です。フォーマットは芦原会館のものとほぼ同じですね。
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そして注目して欲しいのが、これ提出先は極真会館 芦原道場 師範 芦原英幸殿であって、極真会館 大山倍達館長では無いのですよ。

そして芦原道場の会員証。もうデザインは芦原会館のと一緒と言っていいでしょう。
ここにも師範 芦原英幸のサインはあれど大山倍達の名前はありませんね。
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こちらはスポーツタオルです。
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こうしたオリジナルグッズだけでなく(前に写真を載せましたが)空手着も自分のところでオリジナルを作っていたようです。
また、技術的にも次第に芦原道場の独自色を打ち出していったようで、パワー空手には芦原道場から関西本部道場に転向してきた生徒の感想として
芦原道場では基本も本部と異なり、またキックボクシングの様な空手を教わっていた...」
と記事に書かれていたそうです。
反組織的行動について真樹先生の著書によると支部長会議でも大山館長の意見に再々異議を唱えていたとか、都市伝説ですが極真会館相談役に向かって
「オイ、何でヤ○ザがココにいるんだよ?」
と発言し、激怒した大山総裁が灰皿を投げつけようとしたとか…
こうした事が積み重なって多分2人の関係は修復不能になっていったのでしょうね。察するに着々と独立の準備を進めておられたのではないでしょうか?

極めつけが下のポスター。極真時代のポスターですが、
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既に芦原会館と記載がありますね。しかも、道着の胸刺繍と同じ字体で。
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マークはこんな感じ。もちろん芦原会館のマークは独自の4つのステップを表したデザインなんですが…ぶっちゃけ似てますよね?
そして組織名も国際空手道連盟から新国際空手道連盟へ。
技術的にはオリジナルなものを徹底追及しながら、やはり極真会館は強く意識されていたのではないでしょうか?

さて、これまた謎の多い正道会館誕生の経緯です。石井館長のプロフィールには極真会館 芦原道場を円満退館とだけ書かれていましたが、空手超バカ一代でおそらく初めて退館の理由が明らかにされました。月給の値上げをお願いした所、芦原館長石井館長には内緒で関西地区の指導員たちを四国松山に召集し
「石井は金のことを言い出した。アイツは危ないよ。石井を外してこれからはお前たちだけで関西を運営して行け」と。
この話に納得出来ない指導員たちが石井館長に伝え、辞意を伝えた…と。
その後、芦原館長から
「石井、30万出そう」
「石井、他の連中は辞めてもお前だけは残ってくれ」
「石井、50万でどうだ?これ以上は出せないよ」

等々必死の慰留があったけれど石井館長の決意は固く退会しました。
最後の審査会では他の黒帯が出席せずに100人近い受審者を相手に一人で組手の相手をした… 読んでる時はちょっと涙腺が弛みましたねぇ…。
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しかし「一撃の拳」なる本には石井は何とか自分だけでも極真に残れないか、と懇願したが受け入れられずに自流を立ち上げる他なかったとあります。ムムム…真偽は確認出来てませんが、立ち上げ当時の名称が極真空手教室 正道館だった、との情報もあります。
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以下、拳友会に伝わる正道会館初期のお話です。
退会した時には一人ぼっちだった石井館長。しかし芦原道場関西地区の指導員、大学の同好会代表を秘密裏に召集し、
「一年経ったら正道会館に移れ」
と言う約束を交わした。過去のインタビューで石井館長
「弟子たちが移籍したいと言って来たが、急に大勢いなくなると芦原先生が困るから一年間先生にお預けしていました」
と発言されていた記憶があります。
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※この時のインタビュー記事ではなかったかな?今は手元にないので…
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独立当初は正道館と大阪の芦原道場(後の芦原会館関西本部)とは友好的な関係にあり、正道館が最初に開催した西日本大会には大阪芦原会館から選手が出場し、他にも・裏方として協力してたとか。また当時芦原会館に残った中山師範が長期出張等で不在の時には正道館から有段者が指導の応援に来ていた、と言う情報もあります。(真偽未確認ですが)でも中山猛夫師範や京都の伊藤浩久師範正道会館に移籍し、それに追従して多くの生徒が正道会館に移ったのを契機に両派は絶縁状態になってしまいました。はぁ~…
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「流浪空手」を読むと中山師範を始め、当時の関西の指導員の皆さんに芦原館長が大きく期待していたことが伝わってきます。その殆どが正道会館に移籍してしまったわけですから、ケンカ十段の怒りたるや相当なモノだったと思われます。

芦原館長の告別式に出かけた石井館長ですが、
「故人の遺志で…」
と参列を断られた、と格闘技通信にはありました。
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※こちらはゴング格闘技です。
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近年ではK-1甲子園芦原会館(西山道場)の選手が参戦するなど交流も始まりました。
いい話であり緊張感が薄れて残念でもあり…複雑。 

芦原館長が永久除名になった時、ほとんどの門下生が芦原会館に移籍したのは、「極真会館の道場生」「大山の弟子」より「芦原の弟子」という意識が強かったからだと思われます。
同様に関西地区の門下生は審査会などで3~4ヶ月おきに来阪する芦原館長よりも石井館長に親近感を抱いていた人が多かったのでしょう。私が道着を買いに行った時の芦原会館・京都支部支部長は、新京極にあった京都道場が芦原会館から正道会館に変わった際に退会され、芦原館長・滋賀支部に移籍、その後芦原会館・京都支部を設立されたのでした。
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それから15年後、極真会館はもっと大きく分裂してしまいました。
空手の世界は複雑でございます。
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by osaka-kenyukai | 2001-01-01 15:51 | 拳友会とは?