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> やはり京都は…?
先輩方の学生時代の思い出。
A先輩「ところで神戸の道場に石井先輩(館長)って来てた?」
やはり京都は…?_d0182021_11573074.jpg

T先輩「オス、良く来ていただいて指導していただきましたよ。」
A先輩「そうなの?俺、全然印象無いんだよな~。」
T先輩「えっ?そうなんですか?中山先輩とか、良く来ていただきましたけど。」
A先輩「あぁ、中山さんは覚えてる。だけど石井さんは…。だって分裂した時、『えっ?正道館?石井さんって誰?』って思ったもん。」

衝撃の発言!石井館長は京都支部にはあまり行かなかった?他にも裏付ける証言が元正道京都の方のブログに在りました。

実は僕は昔、正道会館の京都支部の道場生でした。最初、京都支部は「極真会館・芦原道場京都支部」と言う名称でした。 そう、当初は極真の道場であり僕と同年代の空手ファンなら誰もが憧れた空手界のカリスマ、あのケンカ十段こと芦原英幸氏(故人)の直轄道場だったんです。
僕が入門したのは17歳の時で、当時はまだ「極真会館・芦原道場京都支部」から「正道館・京都支部」に改称したばかりでした。誤植ではなくて、当時は正道会館ではなく、正道館と言う名称だったんです。 僕が入門したのは、まだ第一回全日本大会の行なわれる半年程前でした。当時は京都の中心地の繁華街・新京極の中にある「京極東宝ビル」の中のスタジオを借りて、京都支部は活動していました。 僕は最初入門しに行った時に一階表の看板を見て、
「あれ?名前が変わってる?」
と思いました。 てっきり、芦原道場だとばかり思っていたのです。 
「何、正道館て? 芦原道場が改称したの?」
って感じでした。当時は芦原氏を始め、数々の有名支部長や選手が極真から離脱していた時期であり、それで名称変更したんだなと勝手に解釈していました。 支部長の名前がI氏のままで、同氏は芦原氏の著書にも名前が出てた芦原道場の重鎮でもあったんで尚更でした。(実際は、正道館は芦原道場から分派独立)ですから、僕は正道館の館長もてっきり芦原先生だとばかり思っていました。(苦笑)
僕が正道館の館長は石井和義氏だと知ったのは、半年後の第一回全日本大会を見に行った時でした。 大会パンフレットを開くと、後援者の議員さん達の祝辞と共に館長の名前と抱負が掲載されていたのですが、
「は?石井和義って誰? 芦原先生が館長じゃないの?」
と目が点になったのをよく覚えています。
「・・・誰やねん、石井って?空手バカ一代(故・梶原一騎氏の作品で、極真空手ブームの火付け役)や地上最強のカラテ(前記作品と同種の映画)には名前すら出てなかったよなぁ・・・。」
それが正直な感想でした。
当時、極真を離れて一派を成した方達は、皆それぞれ上記二作品で名前を売った有名支部長や選手ばかりだったので、石井館長は世間的には全くの無名でした。 それが、梶原一騎追悼興行・格闘技の祭典辺りから正道会館&石井館長の快進撃が始まりました。
選手としての実績は皆無で、梶原作品にも名前すら出て来なかった無名の空手家が、日本だけでなく世界でも有名な格闘技界の顔役にまでなったのだから素直にスゴイと思います。 優れた経営感覚に人脈作りの上手さと確かな先見の明で頂点まで登り詰めた姿は、陳腐すぎる表現ですが正に格闘技界の豊臣秀吉と言っても良いでしょう。(組織の後継者に恵まれていない所でもそう言えるかも。・・・失礼)

石井館長は意外と京都に足が向かなかったのかな?と思わせますね。このブログを書いている方、格闘技について鋭い考察をされています。また、拳友会ブログを読んでいただき、その感想も書いて下さってます。そこでも本部と京都支部の関係について感想を述べられています。
http://komodora02.blog.fc2.com/blog-entry-412.html
タツヤ・カズヤと一緒にお会いしたいです。
by osaka-kenyukai | 2016-08-13 03:00 | 活動近況「結構鍛えてます」