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【時間】第1~第4土曜日
19時~20時30分
【場所】子育てプラザ福島
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カテゴリ:拳友会とは?( 7 )
拳友会とは?
【そもそも、拳友会とは…】
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大阪拳友会は、京都・龍谷大学で活動していた実戦カラテ同好会「拳友会」を母体とする空手サークルです

「拳友会」は、芦原会館・龍谷大学同好会正道会館京都支部に通う龍谷大学生で構成されたサークルでした。
元々は1970年代に極真会館・芦原道場京都支部の同好会として発足しています。
1980年芦原英幸氏の極真会館除名⇒芦原会館設立、1981年京都支部長・伊藤浩久氏の正道会館移籍に伴い、同好会会員の所属する流派が別れてしまいました。
しかし、同好会の活動は分派前と変わらず合同で行われ、私の所属していた1985年~1989年には芦原・正道以外に極真会館、大道塾、士道館などのフルコン流派、古流柔術・伝統派空手・少林寺拳法といった他武道の方々も参加して技術交流を行っていました。
その後、後輩達の努力で非公式なサークルから大学公認の同好会へと昇格しましたが、1994年頃=ちょうどK-1やアルティメット大会の登場で格闘技がメジャーになろうとしていた時代に、部員の減少と練習場所の確保が困難になったことで活動を休止したと聞きました。
最後まで天邪鬼なサークルでした…。
空手の練習会を立ち上げるに当たって、当時のような「明るく、楽しく、そして強い」サークルを目指し、拳友会と名付けました。
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by osaka-kenyukai | 2001-01-05 00:00 | 拳友会とは?
拳友会誕生の経緯
元々は極真空手同好会だった拳友会が、どうして芦原会館と正道会館の同好会になったのか?
フルコンタクト空手界の事情に詳しくない方も居られると思いますので、拳友会に関係するフルコン界の流れを整理してみました。(文中敬省略)

昭和36年 9月 芦原英幸、大山道場(極真会館の前身)に入門。
昭和39年 3月 初段を取得。
昭和42年 3月 大山館長の命により四国の愛媛県へ支部作りに単身で向かう。
昭和44年 1月  石井和義、極真会館四国支部芦原道場入門。
昭和45年 6月 八幡浜に道場完成 。
昭和50年~    漫画「空手バカ一代」や映画「地上最強のカラテ」等で空前の空手ブーム、この頃より各地に支部道場が出来はじめる。
昭和50年 6月  石井和義、22歳でナンバ大阪球場にて極真会館芦原道場大阪支部を設立。以後大阪を中心に京都・神戸・岡山・奈良・姫路・堺へと支部道場を広げ関西地区総責任者となる


(おそらくこの頃に龍谷大学に支部が出来たと思われます。大学で武道系クラブと言えば普通OBなど縦の繋がりが強いものですが、拳友会では全く無頓着で、設立当時のOBと面識の全く無い我々には、詳しい設立の経緯がわからないのでした…まぁ知らなくても誰も気にしていませんでしたが…)

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↑※珍しい極真会館 芦原道場の道着です。

昭和50年11月 芦原門下 二宮城光、極真全世界大会3位入賞
昭和52年11月 芦原門下(大阪支部)中山猛夫、極真全日本大会準優勝
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昭和53年11月 二宮城光、極真全日本大会優勝
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これは準優勝の時の写真?でも格好いいので載せました。
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表彰式にて。空手衣の帯下にマジックで「芦原道場」とアピール。上の中山師範の表彰写真でも見受けられます。

昭和54年 1月 芦原道場松山本部道場オープン
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昭和55年 6月 石井和義、極真会館芦原道場を退館し、正道館を設立

(この辺りの事情は、石井和義氏著・「空手超バカ一代」104頁をご参照あれ)
昭和55年9月 芦原英幸、極真会館を永久除名処分となる。
  新国際空手道連盟芦原会館を設立。


(昭和55年、大きな動きがありました。芦原会館設立に伴い、龍谷大学同好会は新国際学生空手道連盟に加入したのです)


昭和56年11月 正道館、大阪市北区に正道会館総本部を設立し名称を正道会館と改める。同時期、多数の関西地区の支部・大学同好会が正道会館へと移籍。京都支部長・伊藤浩久が正道会館へ移籍。
(芦原会館、正道会館設立から約1年後、またまた大事が起こりました。京都府下にあった龍谷大学同好会は影響をマトモに受けて分裂…したものの、空手着の胸刺繍が変わっただけで相変わらず大学の第8トレーニング室で一緒に稽古をしていたのでした)

www.logsoku.com
コレ↑書かれてるエピソード面白いです。どれも実際に有ったっぽいです。
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by osaka-kenyukai | 2001-01-04 00:00 | 拳友会とは?
分裂当時の事情①京極東宝ビルの看板
今は建て直しされてしまっって現存しない極真会館芦原道場京都支部の所在地、京極東宝ビルにまつわる笑い話が拳友会には伝わっています。
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京都に一人の少年がおりました。
彼は漫画「空手バカ一代」や映画「地上最強のカラテ」を観て「極真空手」に憧れていました。「いつか極真空手に入門して強くなるんだ!
しかし、今のように子供が空手を習うことに肯定的な親は少なくて、また不思議と自分の周囲に「極真の道場に通っている」同級生や先輩が見当たりません。通学路の電柱には「道場生募集!」のポスターが貼られておりましたけれど、肝心の道場の場所も「あの辺りらしいぞ」と言う程度の情報しかありませんでした。
ある日、極真の道場があると知った少年は意を決して京極東宝ビルに向かいました。間違いなく、ビルの看板には「極真会館芦原道場京都支部」の文字が… しかし目立ったスポーツ暦もなく、ケンカにも自信のなかった少年は、漫画や映画で描かれた地獄稽古を思い出し、練習を見学することも無くビルを後にしたのです。

「これではイケナイ!」一年後、再び意を決した少年は京極東宝ビルへ向かいました。「あれ?」看板は「芦原会館京都支部」に変わっていました。「芦原と言えばケンカ十段・芦原英幸のことかなぁ。でも極真空手の道場じゃないやん?」少年は今年も見学せずに家に帰りました。

「アカンやん!強くなるんやろ?」一年後、また意を決した少年は京極東宝ビルへ向かいました。「あ?」看板は「正道会館京都支部」に変わっていました。結局、少年はそのまま家に戻り、とうとう空手を習うことはありませんでした。 お終い。

今で言う都市伝説みたいなお話です。しかし100%作り話でもないようで、当時京都支部に通っておられた方のインタビューに「行く度に看板が変わってた」てな逸話が載ってたりしてましたから…
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※京都道場跡地。難波道場に続き、芦原道場も姿を変えていきます。
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by osaka-kenyukai | 2001-01-03 00:00 | 拳友会とは?
分裂当時の事情②大学同好会について
芦原道場は極真会時代、関西の大学に結構な数の同好会を持っていました。
もちろん広めたのは石井館長です。
「君、大学生?」
「はい、○○大学です。」
「そう、じゃぁ代表になって同好会やらない?」
「えっ?ボクまだ色帯なんですけど…」
「大丈夫、大丈夫。僕が指導に行くからさ~」

こんな感じで同好会を増やして行った、とインタビューで読んだ記憶があります。

大学同好会と言えば、湊谷コーチを輩出した名門・大阪芸大角田最高師範が属した関西外大≪実戦カラテ同好会≫が有名ですが、龍谷大学の様に芦原と正道、両方の流派が同じ学内に存在する例は少ないようです。
(厳密には龍谷大学には正道会館同好会は無かったのですが)

関西の大学同好会については、芦原道場を退館したばかりの頃に石井館長から召集がかかって「一年後には君たち、正道会館に来るんだよ」みたいな話があったらしいです。
なのに何故龍谷大学同好会は全員が正道館に移らなかったのか?
それは当時のリーダーが「石井さんから召集があったけど、他に用事があったから行かなかったから」だそうです。

先輩から言い伝えられている話なので、伝言ゲームみたいにどっかで話が変わっていて真偽のほどは確かではありませんが…昔から拳友会はいい感じに脱力したサークルだったようです。
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by osaka-kenyukai | 2001-01-02 00:00 | 拳友会とは?
空手にまつわるお金の話
芦原道場の関西進出に於いて功績大の石井館長、「空手バカ一代」の二宮(のモデル?)こと二宮博明師範芦原道場関西の看板選手であった中山猛夫師範伊藤浩久師範
錚々たるメンバーが芦原道場を去った事情について、様々な憶測・噂が飛び交っていますが、真相を知る人に出会ったことがありません。

また、石井館長のプロフィールには必ず「極真会館芦原道場を円満退館」と書かれていますが、その割りに拳友会の中では「芦原会館と正道会館が一緒に練習してるのは内緒だゾ」と言う空気がありました。

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※出てスグ書店に買いに走りました!芦原道場時代のエピソード満載です。

唯一、当事者の証言が読めるのが2009年に石井館長が著した「空手超バカ一代」であります。詳しくは本を読んでいただきたいのですが、思いっきり要約すると、
◎石井館長が会社を辞め、空手指導に専念した時の芦原道場の月給は10万円であった。
◎暫くはガマンしたものの社会人時代より低い給料での生活が厳しく、意を決して芦原館長に値上げをお願いした。
◎結果、1万円上げてくれて11万円になった。
◎ところが芦原館長は、石井館長以外の関西地区の幹部に対し、「石井は金のことを言い出した。奴は危ないよ」と吹聴した。
◎納得いかない関西地区の幹部は、石井館長のその事を報告し、「独立して関西でやりましょう」と進言したが、石井館長は自分一人芦原道場を辞めた。

その後、いきさつを知る関西の支部長クラスが正道会館に移籍した、と言う感じですかね?
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これを読んだ時は
「そうだよな~中国地方まで空手教えに行って月給10万円じゃな~」
と思ったのですが…最近、ふと気になって調べてみました、当時の大卒初任給。ソースはネット検索で出たモノなので、正確度はいかがなモノか不明ですが、
昭和50年=大阪に芦原道場を開設した年 ¥83,600
この時はまだ空手専業ではなかったようですね。職員になった時期については記載がないので、年月毎に追っていきますと…
昭和51年 ¥94,300 
昭和52年 ¥101,000
昭和53年 ¥105,500
昭和54年 ¥109,500

う~ん、当時の水準から言うと月給10万って大卒初任給レベルだったようですね。それじゃあ悪い金額では無いような気も…。
石井館長は会社勤めの時はもっと稼がれていたようですし、当然ボーナスも無く、且つ「ケンカ十段」の下で働くには対価として妥当かどうか?とも思いますが。

ちなみに正道会館の誕生した昭和55年の大卒初任給は¥114,500となっております。この時期、石井館長中山師範に月給30万払っていた、と言う話が「一撃の拳」なる本に書かれていましたが、これは確かに破格!
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※松井館長の半生を書いた本ですが、石井館長について書かれた箇所も。

「ウチの職員になるならこれだけ出そう!」石井館長が片手を広げたのを見て月給50万か、と佐竹氏が思ったのも仕方ないか。
で、佐竹氏の給与は当初月額5万円だったとか。(佐竹氏の著書、「まっすぐに蹴る」より)
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※ある種暴露本?文体は聞き書きっぽいですが、書き手が暴走したっぽい(笑)

この金額、一方の言い分ゆえ、真偽のほどはわかりませんが佐竹氏が正道会館の職員となった昭和63年の大卒初任給は¥153,000だそうです。
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by osaka-kenyukai | 2001-01-01 16:53 | 拳友会とは?
そもそも芦原道場 大阪支部とは…
普通に考えますと、四国・愛媛支部の分支部が大阪、京都、神戸、岡山、広島などに出来るとは不思議な感じがしますが…
例えば○○社の愛媛支店が、本社より先に大阪支店を開設するなんてことが一般社会ではちょっと考えにくい話ではあります。

石井館長が大きく広めた関西地区の芦原道場は、そもそも極真会館に認可されていたのでしょうか?
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※石井館長と第1回大会準優勝の前田師範

これも諸説ありまして、当時の事情に関して私などは知る由もないのですが、当時石井先輩・中山先輩率いる極真会館・難波・芦原道場に通っていたと言う大先輩から貴重なエピソードを伺うことが出来ました。
実は大山総裁が大阪・難波の芦原道場を視察に来られ、その場に居合わせた、と言うのです。
そう言えば『大山倍達とは何か?』と言う本の中で石井館長が芦原道場時代のエピソードとして、

『芦原先生から、大山総裁が大阪へ行くと連絡を受けた』
『ただ、来るか来ないか直前にならないとわからない』
『関西の道場生を出来るだけ集め、お迎えするように』


との無理難題を言われ、夏休み前の小学校のように有事の際の電話連絡網でもって無事大勢の門下生で大山総裁をお迎えした、と言うエピソードが載っていました。大先輩の仰る『大山総裁をお迎えした』日と言うのは、この時のことなのでしょう。

大先輩曰く、大勢の門下生による『押忍!』の大合唱に包まれた大山総裁は大そうご満悦で、左の下突きを繰り出しながら、あの独特のイントネーションで
『コプシ(拳)だよ、コプシィ~』
(前後の意味は不明)と仰られたそうです。
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その時はご機嫌だったとしても、最終的には永久除名処分にしちゃってますから、実際のところ総裁がどう思われてたかは分からないですね。
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※第一回大会では、ビール瓶切り演武のアシストを芦原館長が務めたほどだったのですが…
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by osaka-kenyukai | 2001-01-01 15:52 | 拳友会とは?
芦原会館誕生、正道会館誕生
芦原館長の著書「空手に燃え空手に生きる」には1980年3月の支部長会議の際に「あと一年で辞めさせて欲しい」と自ら宣言されたと言う記述があります。
にも係らず、半年後に極真会館から永久除名処分されて芦原会館設立に至ったわけですが。
極真会館側の永久除名の理由は
「8年間の長きにわたり、極真会館道則・支部規約に違背し事ある毎に本部の指示に従わず、再三にわたる警告も無視し反組織的行動を更めることがなかった。」
支部規約違反とは他府県に本部の認可なく支部を開設したことを指していると思われます。
酒席に於ける支部長に相応しくない振る舞い極真会館の機関誌パワー空手のには除名理由に挙げられていました。あいたたた…)
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これ即ち関西一円に広がった極真会館・芦原道場が総本部無認可だったと言う話なんですね。
ただ、大山総裁が大阪へ視察に来られ、大勢の道場生に迎えられてご満悦であったと言う前述の証言もありますし、全日本大会のも中山・伊藤・前田師範など後の正道会館師範クラスのメンバーが関西から出場を認められていました。今で言うグレーゾーンだったのでしょうね。ところが全日本大会に出場している関西の芦原道場の選手で極真会館の有段者名簿に名を連ねていない人が多数いたそうです。例えば前田比良聖さんは登録されていますが、中山・伊藤両師範の名前は記載されていなかったとか。不思議ですよね。
下は芦原道場の入会申込書です。フォーマットは芦原会館のものとほぼ同じですね。
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そして注目して欲しいのが、これ提出先は極真会館 芦原道場 師範 芦原英幸殿であって、極真会館 大山倍達館長では無いのですよ。

そして芦原道場の会員証。もうデザインは芦原会館のと一緒と言っていいでしょう。
ここにも師範 芦原英幸のサインはあれど大山倍達の名前はありませんね。
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こちらはスポーツタオルです。
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こうしたオリジナルグッズだけでなく(前に写真を載せましたが)空手着も自分のところでオリジナルを作っていたようです。
また、技術的にも次第に芦原道場の独自色を打ち出していったようで、パワー空手には芦原道場から関西本部道場に転向してきた生徒の感想として
芦原道場では基本も本部と異なり、またキックボクシングの様な空手を教わっていた...」
と記事に書かれていたそうです。
反組織的行動について真樹先生の著書によると支部長会議でも大山館長の意見に再々異議を唱えていたとか、都市伝説ですが極真会館相談役に向かって
「オイ、何でヤ○ザがココにいるんだよ?」
と発言し、激怒した大山総裁が灰皿を投げつけようとしたとか…
こうした事が積み重なって多分2人の関係は修復不能になっていったのでしょうね。察するに着々と独立の準備を進めておられたのではないでしょうか?

極めつけが下のポスター。極真時代のポスターですが、
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既に芦原会館と記載がありますね。しかも、道着の胸刺繍と同じ字体で。
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マークはこんな感じ。もちろん芦原会館のマークは独自の4つのステップを表したデザインなんですが…ぶっちゃけ似てますよね?
そして組織名も国際空手道連盟から新国際空手道連盟へ。
技術的にはオリジナルなものを徹底追及しながら、やはり極真会館は強く意識されていたのではないでしょうか?

さて、これまた謎の多い正道会館誕生の経緯です。石井館長のプロフィールには極真会館 芦原道場を円満退館とだけ書かれていましたが、空手超バカ一代でおそらく初めて退館の理由が明らかにされました。月給の値上げをお願いした所、芦原館長石井館長には内緒で関西地区の指導員たちを四国松山に召集し
「石井は金のことを言い出した。アイツは危ないよ。石井を外してこれからはお前たちだけで関西を運営して行け」と。
この話に納得出来ない指導員たちが石井館長に伝え、辞意を伝えた…と。
その後、芦原館長から
「石井、30万出そう」
「石井、他の連中は辞めてもお前だけは残ってくれ」
「石井、50万でどうだ?これ以上は出せないよ」

等々必死の慰留があったけれど石井館長の決意は固く退会しました。
最後の審査会では他の黒帯が出席せずに100人近い受審者を相手に一人で組手の相手をした… 読んでる時はちょっと涙腺が弛みましたねぇ…。
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しかし「一撃の拳」なる本には石井は何とか自分だけでも極真に残れないか、と懇願したが受け入れられずに自流を立ち上げる他なかったとあります。ムムム…真偽は確認出来てませんが、立ち上げ当時の名称が極真空手教室 正道館だった、との情報もあります。
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以下、拳友会に伝わる正道会館初期のお話です。
退会した時には一人ぼっちだった石井館長。しかし芦原道場関西地区の指導員、大学の同好会代表を秘密裏に召集し、
「一年経ったら正道会館に移れ」
と言う約束を交わした。過去のインタビューで石井館長
「弟子たちが移籍したいと言って来たが、急に大勢いなくなると芦原先生が困るから一年間先生にお預けしていました」
と発言されていた記憶があります。
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※この時のインタビュー記事ではなかったかな?今は手元にないので…
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独立当初は正道館と大阪の芦原道場(後の芦原会館関西本部)とは友好的な関係にあり、正道館が最初に開催した西日本大会には大阪芦原会館から選手が出場し、他にも・裏方として協力してたとか。また当時芦原会館に残った中山師範が長期出張等で不在の時には正道館から有段者が指導の応援に来ていた、と言う情報もあります。(真偽未確認ですが)でも中山猛夫師範や京都の伊藤浩久師範正道会館に移籍し、それに追従して多くの生徒が正道会館に移ったのを契機に両派は絶縁状態になってしまいました。はぁ~…
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「流浪空手」を読むと中山師範を始め、当時の関西の指導員の皆さんに芦原館長が大きく期待していたことが伝わってきます。その殆どが正道会館に移籍してしまったわけですから、ケンカ十段の怒りたるや相当なモノだったと思われます。

芦原館長の告別式に出かけた石井館長ですが、
「故人の遺志で…」
と参列を断られた、と格闘技通信にはありました。
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※こちらはゴング格闘技です。
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近年ではK-1甲子園芦原会館(西山道場)の選手が参戦するなど交流も始まりました。
いい話であり緊張感が薄れて残念でもあり…複雑。 

芦原館長が永久除名になった時、ほとんどの門下生が芦原会館に移籍したのは、「極真会館の道場生」「大山の弟子」より「芦原の弟子」という意識が強かったからだと思われます。
同様に関西地区の門下生は審査会などで3~4ヶ月おきに来阪する芦原館長よりも石井館長に親近感を抱いていた人が多かったのでしょう。私が道着を買いに行った時の芦原会館・京都支部支部長は、新京極にあった京都道場が芦原会館から正道会館に変わった際に退会され、芦原館長・滋賀支部に移籍、その後芦原会館・京都支部を設立されたのでした。
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それから15年後、極真会館はもっと大きく分裂してしまいました。
空手の世界は複雑でございます。
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by osaka-kenyukai | 2001-01-01 15:51 | 拳友会とは?