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19時~20時30分
【場所】子育てプラザ福島
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> 中山猛夫師範伝説 ⑨
もう限界かも…
極真会館 千葉県田中道場さんのブログより。
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33年前、大阪の極真会館・芦原道場に入門したときのことを思い出しました。
大阪難波の大阪球場に入門志願の長蛇の列ができました。
現在のK-1の創設者、石井氏が中山猛夫氏と一緒に受付事務を淡々とやっていました。


関西初の極真空手と言うmixi(すっかり聞かなくなりました)より

●自分の中では、極真芦原道場と言うのは伝説です。自分が少し習った支部の当時の責任者は、当時大阪で指導もしていて(石井氏の後輩で、当時の中山猛夫氏を良く知っているらしいです)400人の受審者を黒帯2人で相手して、極真会は100人組手やけど 俺達は200人組手やなぁ。と言っていました。

●私のいた頃は、基本、移動稽古、型、コンビネーション、自由組み手=後輩の攻撃を先輩が全て捌くと言う内容でした。後輩が先輩に胸を借りる訳ですが、その中でも中山猛夫先輩のサバキは凄かったですね。当時の後輩の方で、もの凄いスピードでワンツーハイキックのコンビネーションで攻撃したのを、顔色を全く変えずに、全て完全に捌いていました。周りで見ていた道場生は、目が点になっていました。


極真会館・浜井派の方の回想。

●芦原道場の先輩方も凄かった、というか、怖かった。中山猛夫先輩の左の回し蹴りと下突きは天性のもの。私が極真会館芦原道場に入門してから数年して看板が変わった。芦原会館京都道場になり、その後、石井先輩と中山先輩が来られて正道会館を立ち上げると言われた。どういう経緯かわからなかったけど、練習は同じで指導者も変わらない訳だから、ということで私は、そのまま京都道場で稽古を続けた。胸の「極真会」の文字はいつしか「芦原会館」となり、その後、「正道会」と文字が変わっていた。 

ちょっと面白くない都市伝説。

●中山猛夫が石井館長が極真芦原道場脱退した時、中山猛夫と他一名の二名が素手で芦原を待ち伏せしたが芦原に一喝されて芋ひいた話が過去ログにあったな。

全日本大会でサイン貰った時と学生時代に新人戦に出た時、中山師範芦原会館所属(してました)と言ったけど凄く懐かしそうで、先代と揉めた様な印象はありませんでしたよ。離脱・独立の時代にはこうした噂が流れる様です。凶器を持った10人ほどに襲われたルポライターもいるらしいですから…。

極真・城西支部の山田支部長のブログ。
 
私が茶帯のころ、上京された芦原師範を、何度かお見かけしました。今で言う 「 イケメン 」 で、数々の武勇伝が響き渡っていた芦原師範は、私にとっても、あこがれの師範でした。
初めて声をかけていただいたのは、昭和48年の第5回大会の会場です。直前の道場稽古で、鼻骨を骨折したため、トーナメント表に名前が出ているのに、出場しなかったのです。芦原師範に聞かれたので、「 鼻骨を骨折しました。」と答えると、「俺なんか何度も鼻の骨を折っているよ。」といって、自分の鼻骨を指で押さえたり、ひねったりされていました。
その後は、出場した大会会場で、何度も声をかけていただきました。試合に負けた場内で、「山田、組手をむずかしく考えすぎなんじゃないか?」とアドバイスをいただいたこともあります。 
 私が支部長になった昭和53年当時は、まさに総本部道場の全盛時代でした。その中にあって、二宮城光、中山猛夫といったトップクラスの選手を輩出されており、指導者としても目標でした。
芦原師範は昭和55年、極真会館を離れ「芦原会館」を設立されました。その後は、残念ながら、お付き合いができませんでした。


う~ん、意外な組み合わせ。
あぁ、いよいよネタ切れです。
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by osaka-kenyukai | 2014-12-06 00:44 | 活動近況「結構鍛えてます」